Riga

 07:00に起床。夜の間に雨が降ったのか、路面が濡れている。天気も曇りで日差しも弱い。
 いよいよRiga800のメインイベント"Riga Through Centuries - 800 years in 800 minutes"当日である。1分を1年と見立て、10:00から23:20までの800分間という長い間、街のあちこちで歌や音楽や踊りなどが披露される。
 09:00頃から

をぶらついてみるが、まだ人通りもなく、イベント関係者は最終準備に追われている。街の南側にはまだ改修されていない
古い建物
が残っており、人通りもなくとてもいい雰囲気。観光地化されたロマンチック街道などよりもずっと中世の雰囲気を味わえるのではないだろうか。ただ、今日はお祭りなので、全ての家にラトヴィアの国旗が掲げられているので、いつもとは違う雰囲気なのだろう。もっとも、ソヴィエト時代には掲げることを禁じられていたのだろうけど。
 バスターミナルの近くにある<
中央市場
へ。もともとは飛行船の格納庫だったものを市場として利用しているとかで、とにかく広い。しかも、その広い
建物の中
に所狭しと販売ブースが置かれ、活気に満ちている。扱っているものは肉や野菜、乳製品などの日用品が多く、観光客には縁のないところかもしれないが、これだけの物資が溢れているのを目の当たりにするとなぜかほっとする。ラトヴィア名産の一つである蜂蜜の小壜を衝動買いしてしまった。
 旧市街に戻り"konventa Seta"という中庭の一角にある土産物の商店群で買い物。ラトヴィアの薬草酒と、独特の飾りが7つついた"Ligavas Gredzens"という指輪を買った。(意味は自分で調べてください。…あげる相手はいませんが。)
 10:00になり、いよいよお祭りが始まると人通りがどんどん増えてくる。道端で
民族歌謡を披露するグループ
もいくつもある。メイン会場となるドゥアマ広場ではコンサートが開かれているが、むしろ自由記念碑の前で行われている
"Riga sings"
(Riga Dzied)のほうに惹かれた。これは、ラトヴィア各地の合唱団が民族歌謡を披露するもので、悲しい曲・楽しい曲、それぞれに静かな情感がこもっており、たとえようもなく美しい。意味など分からなくても聞き入ってしまう。新市街のほうでは、昔ながらの食べ物を再現した屋台が軒を連ねる
"Riga feasts"
(Riga Ed), 子供たちが民族舞踊を披露する
"Riga dances"
(Riga Dejo)等が開かれており、"Riga dances"では、女の子に手を引かれ半ば強引に踊りの輪の中に引き込まれてしまった。皆で手をつないで輪になって踊るもので、難しくはないのだがとにかくテムポが早く、ついていくのがやっとという状態。子供たちに笑われてしまったが、とても楽しかった。子供たちが民族の歌や踊り、衣装などを継承していくのはとてもいいことだと思う。
 自由記念碑の前には、
花で作られたラトヴィア国旗
が置かれ、人々が次々と花を捧げていく。花を持っていない私は祈るのみ。このラトヴィア国旗にも悲しい謂れがある。ドイツ人との戦いにおいて傷ついた王の体が降伏の証として白旗の上に横たえられ、彼の体から流れる血は体の置かれたところを残して旗を赤く染め上げたのだそうな。
 午後になると晴れてきた。せっかくのお祭り、雨ではつまらない。お昼時で"Riga feasts"も大混雑で、シャシリクを買うために30分以上も並ぶ羽目になった。ここで、リーガで10年も子供たちの医療を援助しているというアメリカ人の女性と知り合い、いろいろ話した。日本人が、しかも個人でリーガを訪れるのは珍しいらしく、とても驚いていた。そういえば、どこにでもいるといわれる日本人を全く見かけない。
 案内所に行ってみると、今夜のfinaleで初演されるはずの曲"Dream about Riga"(Sapnis Par Riga)のCDをなぜか売っていたのでまたまた買ってしまう。曲の出来はまだ分からないが、きっといい思い出になることだろう。リーガで3枚もCDを買うとは思わなかった。
 祭りから少し離れ、ダウカヴァ川に架かる橋の上で一休み。川面を流れる風が心地好い。ここから眺める
旧市街の遠景
は素晴らしい。
 16:00からドゥアマ広場で"Carmina Burana"の演奏があるということなので行ってみる。
人出
は増える一方のようだが、東京の朝のラッシュに比べればまだ少し余裕がある。日陰を確保し聞き入る。生の演奏はいいものだ。終了後、再び"Riga sings"で歌声に聞き入り、18:00に早めの夕食を摂ろうと思い立ちガイドブックで目を付けておいた店に行ってみるが今日は閉店とのこと。その他にも代替わりしていた店がいくつもあるが、リーガの変化の速さの裏付けだろうか? "Pulvertornis"というセルフの安食堂でソーセージの煮込みとマッシュポテト・木苺の冷製スープ・ケーキ・ケフィールで簡単に夕食を摂る。1.26Ls也。
 行ってみたいイベント、そしてfinaleまで時間があるので、いったんホテルに戻り、明日の準備をしつつ、この旅日記を書いておく。
 20:00に外出し、またも"Riga Sings"へ行き民族歌謡を聴く。今回は楽しげな曲が多く、それはそれでいいのだが、やはり哀調を帯びた曲を聴いてみたかった。
唄い手
だけでなく、観衆も一緒に唄い、手をつなぎ、スイングしている。『歌が民族の命』ということを目の当たりにした思いだ。
 日が落ちて寒くなってきたので、22:00にいったんホテルへ戻ろうとする。ところが、旧市街への入り口を警察が閉鎖している! かなり焦ったのだが、泊っているホテル(旧市街にある)に戻りたいと言ったところ何とか通してくれた。上着を着てドゥアマ広場へ。それなりに混んではいるが、予想したほどでもなく、朝のラッシュがこれくらいならさぞかし楽だろうと思える。22:30からは往年のロックンロールが演奏されたが、予想以上に観衆のノリが良い。若者や子供まで踊っている。近くの女の子がなぜかこちらをしきりに気にしていたので少しだけ一緒に踊った。もっとも、コンサート終了後に両親に連れられて何処かへ行ってしまったが。
 広場に据えられた巨大なスクリーンでは、これまで1分ごとに年数をカウントしていて、その年代に対応した絵画や文書などの資料を映し出していた。1940年代は戦争の映像の連続で、このときは
大聖堂も赤くライトアップ
されていた。その後のソヴィエト時代は、大きなイベントや日常生活を中立的に淡々と流していた。ラトヴィア、特にリーガには現在もロシア系住民が多数住んでいるとのことなので、恐らく彼らに配慮したものだろう。私自身、ずいぶんとロシア語を耳にしている。23:00にコンサートが終了すると、スクリーンのカウントは1980年代に入り、いよいよあの独立運動にさしかかった。10年前にニュースなどで見た、銃撃戦・静かなデモ・歌の集会・蝋燭を灯した慰霊などの映像に、少女らによる当時唄われた歌が重なり、何とも言えない情感を醸し出す。言葉にすることは出来ないが、自然と涙が溢れてくる。
 カウントが2001年に入り、ドゥアマ広場でのコンサートは終了。finaleはダウカヴァ川での花火なので移動するが既に大混雑。結局、川から遠く離れた位置しか取れなかった。23:35に、この日のために作曲された"Dream about Riga"の調べに乗せて
花火
が次々と打ち上がった。日本よりも大輪の物が多いような気がする。曲調に合わせた打ち上げのリズムの調整は見事の一言。花火なんて何処で見ても同じ…と思っていたが、この花火は一味違った。リーガの未来を祝福する花火であってほしいと願わずにはおれない。それにしても、海外での深夜イベントは3回目だが、パリ・ニューヨークときて次がリーガというのも何ともはや。
 混雑の中をホテルへ戻ると既に01:00. 表では未だに大勢の人が大騒ぎしている。恐らく徹夜だろう。とても楽しいお祭りだった。何よりも、ラトヴィアの人々が、自分達の歌を唄い、自分達の踊りを踊り、自分達の国旗を掲げ、自分達の祭りとして祝えることが素晴らしい。イベントそのものもさることながら、こうした情感がこの一日を忘れられないものにしてくれたのだろう。Riga900も、今回のように純粋に楽しいイベントとして祝えることを切に願う。Congratulations, Riga!

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